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「大ケ生金山祭り」にこの秋に出かけた。珍しい古武道を見、子供はイワナのつかみ取りに歓声を上げ、大鍋で作った芋の子汁を美味しくいただき、珍しい山の物を沢山買って帰った。その場所は大ケ生。戦国時代に大ケ生玄蕃が居を構えていたことが地名の由来。瀧源寺の脇に樹齢約170年、高さ22メートルの国の天然記念物シダレカツラの木があり、小高い小学校跡地に登る坂道から見ると、この地域全体が何とも厳かで不思議な雰囲気を醸し出している。「金山跡地の見学」というのもあったが時間がとれず、心残りにして帰った。
11月に入って重石氏に案内していただき、早速万寿坑跡まで出かけた。万寿坑管理者 中虫壁静夫氏の敷地内に入ると資料が置いてあり、奥様の中虫壁トモ子氏がヘルメットを用意して坑道内の電気を付けてくださる。2メートルあるかの横幅と天井は入り口付近は結構高く、中に行くほど低く、少しかかんだりしなければならない。湿気が多く、暖かく、名物の茗荷の漬け物樽が左側の柵の中に置いてある。脇を流れる地下水は温い。まっすぐ行くと行き止まりの柵があり、鍵がかかっている。岩手の米「カケハシ」を使用した沖縄の「泡盛」が貯蔵されているという。(話によると、泡盛はタイ米を使うのだそうだが、岩手米で仕込んだこの酒はかなり美味しいらしい) コウモリもいるそうだがお目にかかれなかった。外に出ると中虫壁トモ子氏が資料を出しながら、「折角この場所まで来てくださった方に、何か説明をと以前カセットテープを流していましたが、あまりに味気ないので、知っていることを説明させていただいております。」とにこやかに話す。


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この山の名は「黄金吹山(こぶきやま)」、安土桃山時代、山の中に金鉱石がむき出しになっているところがあった。ある家では、農家仕事の合間に奥さんを山の途中に待たせて、ご主人だけが採鉱してカゴに入れて運び出し、手渡し、金を採取し盛岡に行って売り、生計の糧にしていたそうだ。金鉱脈のあるところには誰も連れて行かなかったという。
金脈には2・4・6メートル巾があった。1トンから3グラムの金が採れて採算が合う。1トンの大きさは60〜70センチメートルの正方形で、1グラムの金の僅かなこと。昭和10年に製錬所が出来、1日100トン〜120トンを製錬したという。資料の鉱石は焦げ茶色が金、黒いところが銀、青緑が銅とのことだが、一見して解らない。この鉱石は圧縮すると水晶になるという。
万寿坑(まんじゅこう)は大正8年から掘進が始められ、坑道は上大ケ生(おおがゆう)元山(もとやま)の大生坑(だいせいこう)に連結されている。坑道の中心はクモの巣状態になっており、殆どが落盤により崩れて形を無くしている。
現在万寿坑の入口から続く800メートルの坑道のみが残っている。ヘルメット着用で入口から120メートルまで入れるがその先は一般の方は入ることができない。500メートル地点で酸欠状態になる。左脇に地下水の流れる水路が通っていて、その水は冬暖かく夏は冷たい。直進で800メートル、その後斜め下に進み、北上川地盤の水脈に突き当たっているらしい。
岩手県は民謡に歌われているように、西にも東にも金山があり、そして、金・銀・銅・硫化鉄・硫黄・亜鉛・石炭・石油・鉄等、鉱物を有する県である。採掘して閉じられた鉱山跡も多数あり、その時代我々に夢を与えてくれ、今は穏やかにひっそりしている山の何と寛容なことか。が、今現在歩いているこの地下にはまだまだ沢山の金脈が眠っているし、浅はかな考えかも知れないが、ちょっと岩手県人として豊かな気持ちになる。
明治36年、秋田県人 細川寅吉が元山に分け入り、廃坑を発見。
明治39年、黒沢尻(北上)の郡司半助氏が「大萱生金山」の名称で操業。
明治45年、経営が竹内鉱業所に移る。
大正2年、静岡県人 村上太三郎氏の経営になる。
大正5年、住友合資会社が鉱業主となり、大ケ生元山より矢巾駅間(12キロメートル)に架空索道を架設し、小坂・日立鉱山に売鉱された。
昭和9年、元山〜万寿坑〜製錬所〜矢巾駅を索道でつなぎ、城内に湿式製錬所設置にとりかかる。
昭和10年、青化製錬を開始。更に11月より浮遊撰鉱方式により製錬処理を開始。
最盛期には金山従業員は四百数十名を数え、多様な商店等も進出し、繁盛を極めた。例えば、水谷八重子のデビュー映画が盛岡より先に封切られたり、電気が引かれたのも地域的に早かった。
昭和18年、国策「金整備令」により、やむなく閉山。

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